人間をいくら平和的に育てようが、「攻撃性」は残る

人間をいくら平和的に育てようが、「攻撃性」は残る。その認識は必要である。その認識があるかないか、で対処は違ってくる。
たとえば、植松事件にしても、私のような認識のものは「ヘイトクライム」とはとらない。それは「攻撃性」が噴出した事件とみる。その殺意の動機は、介護するものと介護されるものの「疑似的な支配関係」が、「受け身労働者」の「介護労働者」が「介護されるもの」=主人に対する、殺意が起きてもなんらおかしくない。
つまり、植松事件をサイコパスとかヘイトクライムとみる人間は、そもそも人間は、介護する、つまりは奉仕することの不合理さを見たくない「ブルジョア」である。
そもそも介護労働は「使命感」を強要される労働現場であり、その反転が「障害者抹殺」という「使命感」を植松が「労働現場」から導き出しても、それは、まったく奇妙なことではない。
なぜなら新自由主義の職場崩壊が全面化した現在、そのような職場崩壊の極致とみれば、植松事件の異常さは、異常として片づけることができない「われわれ」の問題である。
介護は、向き不向きがあるから、使命感がないと就いてはいけない、とキャリアコンサルタントから厳命された。 私はさしあたり、生活、つまり、マズローの最底辺が満たされていないから、生活のために、介護を行うのは、必ず、虐待をする、とも言われた。 確かにそうだ。
では、介護産業が市場経済にのみこまれたこの現在、どのようにして介護現場で頻発する「虐待」を防止できるのか。
われわれは、相模原事件を「ヘイトクライム」と呼んで、片づける愚かなことはしてはいけない。
相模原事件は、徹頭徹尾、労働問題である。
それは新自由主義にのみこまれた介護産業(障害者や老人が「商品」として扱われ、「低廉な労働力単価の非正規労働者が渋々従事する」)の現在の断面が相模原事件である。
今後、形をかえ、手を変え品を変え、障害者や老人や入所者への暴力や殺人が頻発するであろう。
そのことだけは、私は予言しておく。
覚悟したほうがいい。
そうならないように、と頭の固い保守層は介護産業はモラルだ、人に尽くす、だの、利いた風な口のお説教をしはじめて、なんら、介護産業が市場経済にのみこまれ、介護労働者の尊厳を踏みにじる現在を改善しないだろう。
入所者も暴力にさらされるが、介護労働者も経済暴力にさらされている現在を、保守層も、自称リベラルも無視し、相模原事件を「ヘイトクライム」だの「サイコパス」だの片づけて、忘れてしまうのだろう。
現在、植松事件を「ヘイトクライム」だとか「サイコパス」だとか言って片づけるものは「介護聖職者論」を無自覚に生産している「保守層」にとってうれしい存在なのだ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 社会思想へ
にほんブログ村

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中