ビジネスジャーナルの捏造記事謝罪に怒る「遅れた自称言論人」の同誌に対する勘違いの非難

そもそもビジネスジャーナルの捏造記事謝罪文に怒っている人はその捏造記事を読んでいない。
何に怒っているかというと、その謝罪の方法が薄汚れた罪人のように見えて、特に同業の言論人が、一緒にされたくない、という「皮膚感覚」でしか反応していない。
そもそも「自称言論人」は、捏造記事を見ていないわけだ。
だのに、謝罪の仕方が甘いというような感覚で怒っているだけだ。
それは幼稚ではないか。
ビジネスジャーナルに対する批判のひとつに、職業倫理的に許せない、というようなことを述べる人がいるが、そのような「職業倫理的に許せない」という批判は実に「保守的」な感情でしかない。
新自由主義により職場崩壊が叫ばれている今日、「職業倫理的に許せない」とか「プロだろ」という言葉は自己満足の抑圧でしかない。
私は、ビジネスジャーナルは、大手マスコミのように、謝罪もしなければ開き直ることもないので、謝罪した分、それは許さなければいけない範疇に私は属すると考える。
だが、問題はなぜ、ネットメディアは無料であるのにも関わらず、成立し、維持できるのか。
そもそもそのメディアはジャーナリズムであるのか。
多くの自称言論人は活字メディアにずぶずぶつかった古臭いセンスから「非難」しているだけで、それはインターネットの言論、に対しては的外れな非難しかできない古臭い自称言論人の時代についていけないセンスを見せているだけだ。
ビジネスジャーナルを叩く自称言論人が行っている同誌への非難は、私は正しいが、ビジネスジャーナルは悪ですので、悪はとっととこの世から消えてください、というまさに岡っ引き感情と、自分の仕事を延命しようとする無駄なあがきにしかみえない。
多くの労働者が新自由主義の全面化により職場崩壊にさらされた職場で仕事しているのに「文化資本」だけがその職場崩壊から免れる、というのもおかしなユートピア感情だ。
だから世間知らずは嫌いだ。
自称言論人は、重要な前提を押さえていない。
文化資本といえど、それは資本であり、企業なのだ。
その前提を見ずして、なにやら自由な言論、真実のジャーナリズム、という夢想を抱いて死んでいくのが、幼稚な鳥越型言論人だ。
自称言論人や自称文化人は、文化資本の「商品」を作らされているにすぎないのに、なにやらその「商品」に自分を「見てしまう」といういささかロマン主義的な間違いをこの21世紀においても抱いてしまう倒錯を抱いている。
ビジネスジャーナル捏造謝罪に怒る人は、19世紀的ロマン主義の「作家」という古生物のような存在の視点から非難しているから、さっぱり勘違いである。

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