乙武氏に対する悪意ある書き込みも「ヘイトクライム」ではないのか、それは許されるのか(謎)

僕は、植松容疑者のその犯した殺害や口にした言葉である「障害者はいらない」に対して、「ヘイトクライム」と名付ける人は、その名付けることで、わかったつもりになっているのではないのか、と疑問を感じるのです。
というのは、以前、身体障害者の乙武氏がレストラン入店拒否により、彼が店名を実名で抗議したとき、多くの日本大衆は、乙武氏のその行為をバッシングし、さらには、彼を入店拒否したレストランまで実地に調べ、これでは、入店拒否して当然だと、いわば、乙武氏を「セカンドレイプ」してしまうような日本社会において、植松容疑者のその言葉である「障害者はいらない」をもって、自分とは別の、もしくは、日本社会には異質な「ヘイトクライム犯罪」が存在しており、私はそのような価値観、日本社会はそのような価値観を抱かない健全な社会だということを言いたいだけで、事件の再発防止を何ら考えておらず、日本社会のそこかしこに巣食っている「障害者に対する偏見」を見て見ぬふりを行っているようにしか見えないのです。「ヘイトクライム」を許さない、と格好つけて言っているだけで、いつもの「日本的風景」を見せられているだけにしかみえない。そして、先ほどの乙武氏であるが、自民党から出馬するというその「立候補できる権利」を単に行使しただけで、乙武氏を非難し、彼の不倫に対し、ネット上では、「障害者はいらない」以上の誹謗・中傷・悪意の書き込みが吹き荒れたことを覚えている私は、植松容疑者の「障害者はいらない」に対し、それは「ヘイトクライム」とわかったつもりで評論している人は、実はわかっていないのではないか、と勘ぐってしまうのです。なぜなら、乙武氏に対する悪意ある書き込みも「ヘイトクライム」ではないのか。それは許されるのか(謎)
実は、僕は、多くの日本大衆には、日本社会にとって「都合のいい障害者」、「都合の悪い障害者」が存在しており、乙武氏は、まさに日本社会にとって「都合の悪い障害者」であり、彼は、率直に自分の意見を述べて、さらには、健常者以上に自由な行動をしているように見えることが、腹立たしい。「障害者は弱くあるべきだ」という勝手なイメージを裏切るので、さらに腹立たしい存在であり、だが、殺された障害者はまさに、日本社会にとって都合のいい障害者、絵に書いたような弱者、さらには容疑者の大胆不敵な反社会的行動が、まさに、対比として、現れて、その絵に書いたような構図に、(いかにも悪である植松容疑者、いかにも弱者の殺された障害者)が勧善懲悪のドラマのようにわかりやすく、その悪を単に「ヘイトクライム」と呼ぶことで、わかった気分になっていないのか、と僕は疑うのです。
障害者といってもそれは人間である以上、ずばずば自分の意見を口にする障害者の乙武氏もいるのですが、実際のところ、障害者は弱い存在でいてほしい、という手前勝手な都合のイメージを持っている日本人は、乙武氏を平気で誹謗・中傷できるのです。
「差別社会日本」に守られるべき障害者であってほしいというのが多くの日本人が考えている障害者観ではないでしょうか。
そもそも、植松容疑者が「所有したその優生思想」を簡単に「所有できる」日本社会ということをまず考えていない。
その問題は、見過ごされている。
なぜ、日本で生きていて簡単に「優生思想」を所有できてしまうのか。
それは、実は、大多数の日本人がそれを求めているからだ、と僕は見ています。
都合のいいことに石原慎太郎の障害者への暴言があり、その暴言や、また、差別根性丸出しの安倍政権が、その植松容疑者の「優生思想」の根拠に見えてしまうが、そうではなく、もともと、日本社会そのものが「障害者ヘイト」の社会ではないのか、という視点が存在していない。
というのは、日本企業のタコ社長は平気で「障害者はいらない」と社内で口にし、「障害者」は「障害者枠」で雇用できる「健常者」より安上がりな労働力としかみていないこの日本社会が「障害者に優しい社会」であるわけがない。植松容疑者の「障害者はいらない」はこの日本社会の「鏡」でしかない。
というかさらに困ったことに、社内で平気で「障害者はいらない」というような企業のタコ社長は「人権」で守られているのです。
つまりは、植松容疑者の「障害者はいらない」は彼がヒトラーだとかそんなガジェットを身にまとってさらには公言してしまうので、そのガジェットの影響で、植松容疑者を「ヘイトクライム」と見えてしまうのだが、そうではなく、それは日本社会の「障害者に優しくない社会」のその価値観がそのまま殺害へと至ったそういうことではないのか。植松容疑者のその殺害を「ヘイトクライム」と分類して、日本社会に存在する「障害者への偏見」は見て見ぬふりをしておこう、という風にしか僕には見えない。
植松容疑者のその殺害行為を賛美するネット上の書き込みがあり、そのことを非難する人は、先ほどの乙武氏への悪意ある書き込みには非難しただろうか。
またもや日本社会はここで二枚舌を使っているのです。
乙武氏はカネもあるだろうから、バッシングしていい「障害者」だ、と。
だが、施設に入所している「障害者」は、それは弱者であるがゆえ「かわいそうな存在」。
そういう風な二枚舌を使ってるようにしかみえない。
もし、日本社会が障害者に対し、やさしい社会、理解ある社会、差別と偏見がない社会であれば、もっとバリアフリーな施設ができていいではないか、と同時に、障害者が社会に溶け込んでいなければならない。その溶け込んでいない社会の攻撃性が「植松容疑者」という姿として現れたのであり、それは「ヘイトクライム」であるなら、日本社会そのものが「ヘイトクライム社会」だと見るべきではないのか。
日本社会そのものが「ヘイトクライム社会」だから「植松容疑者」が誕生した。そう見たほうがいいのです。

植松容疑者は「日本社会」のイコンだ、と見るべきである。

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乙武氏に対する悪意ある書き込みも「ヘイトクライム」ではないのか、それは許されるのか(謎)」への1件のフィードバック

  1. 英語の定義的には、ヘイトクライムではなく、障碍者に対するヘイトスピーチと思います。障碍者に対するヘイトスピーチにも実質的な罰則を設けるべきと思います。

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