植松聖くんをヘイトテロと断定する人間は、思想強化でも目指しているのか

植松聖くんをヘイトテロと断罪する人間は、何を問題にしているのか、というと、死ねる思想、殺す思想の選択や美を結局は、問題にしてしまっていることに気づいていない。
なぜなら、彼らは、連合赤軍のリンチ殺人を、妙な言葉で苦し紛れに擁護するのは目に見えている。
つまり、彼らは、人間の生命は二の次であり、思想が、つまり、殺す思想の美学が問題なのだ。
その意味では、植松聖くんをヘイトテロと非難する者たちは、ツインタワーテロに、美をみたシュトックハウゼンのプチブルバージョンである。
植松聖くんが、仮に障害者ではなく、権力を握る者を殺害していたら、植松聖くんをヘイトテロと非難していた者たちは、手のひらを返して、賞賛していた可能性も考えられる。
人間の生命は、植松聖くんをヘイトテロと非難するヒューマニストたちにも、二の次かもしれない。
植松聖くんのその犯罪をヘイトテロと断じるそしてさらに問題点は、そのヘイト思想により殺人が行われた、ということは、その思想により殺人が行われたということであるから、思想犯の復活を呼び寄せ、結局は、市民弾圧の口実を権力に与えてしまうのだ。それも、敵側の思想のヘイトが理由によってだ。
国家は、リベラルの価値である自由・平和・平等に敵対する勢力を規制するだけではない、というか、それは、二の次であり、国家に対する敵対勢力を規制し、弾圧を加えるのである。
現在のリベラルの弱体化は、社会の安全を国家に委ねたがるその「依存」にあり、だが、「依存」は、individual ではない。

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