孤立すれば誰もが植松聖になる可能性はある

植松聖の悲劇は、人間が孤立するといかに間違った方向に向かうかを示す実例である。
人間が孤立する要因は、貧困であったり、植松のように措置入院であったり、長時間労働によりその結果家族や友人に会えず孤立、ほか様々な要因がある。孤立に忍び込むのは、ギャンブル、飲酒、ドラッグ、インターネットらへの中毒である。植松のその価値観は孤立していたとき、インターネットに出会ったものではないか。
そもそも、入院しなくても、福祉施設で夜勤時給905円では、孤立しやすい。もう、そのときから、インターネット中毒により、脳障害があったのではないか。
私の推測は、植松聖は、孤立が生んだ犯罪とみる。
そして、植松の犯罪は決して許されはしない。
だからといって植松に対し、簡単にヘイトだのナチだの優性思想だの投げつける人たちは、比較的、恵まれた側ではないのか。(植松を非難する人間も孤立し、非難することで自分の孤立からくる不安を解消しているかもしれない)
つまり、植松聖の悲劇は孤立すれば、誰にも、起こりうる悲劇なのだ。
それを食い止めるには社会を豊かにするしかない。
社会を豊かにするとは、どういうことか。
例えば、労働者にとっての社会とは、企業ではなく、労組である。
つまり、労組が豊かにならなければならない。それは金銭面だけではない。
労働者がその労組にいて安心できる、と感じられることが豊かである。
労組は闘っているだけではいけないのだ。
植松もまた労働者であれば、そのようないて安心できる労組に巡りあえたら、障害者殺害事件など起こさなかったかもしれない。
植松の悲劇をもう二度とくりかえさないためにも私はそう考えるのである。

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