植松聖が障害者差別であれば、障害者施設で、働いていたのは整合性が成立しないではないか

そもそも、植松聖を、障害者に対するヘイトテロとして仕立てる思考も植松聖のように、フィクションを現実ととり違える思考の持ち主である。
植松聖が障害者差別であれば、障害者施設で、働いていたのは整合性が成立しないではないか。
私が推測するには、仕事の選択肢が少ない中、介護産業へ若者を引きづり込む昨今の労働市場により、介護になんら興味がない人間が、介護産業の非常勤、常勤、というヒエラルキー、低賃金(夜勤で時給907円)、リアルな障害者の存在、などに、「心が折れた」その「心」を立て直すために、もしくは自分の不満を解決するために、サービス対象である障害者に怒りと殺意が向かった。
そういうことなのではないか。
あの手紙の異常さ、彼が百田尚樹をツイッターでフォローしており、だから、ネトウヨの差別思想がとうとう人を殺すまでに至った、と断定するのは早計ではないか。
例えば、小売店の人間が、仕事の不満があると、客に怒りが向かうことがある、というか、客が多いと、不満とストレスがたまる。収入がある程度あれば、その不満は、酒を飲んだり、パチンコしたり、ストレス発散をできるところが、植松聖はその低賃金ゆえ、または、夜勤ゆえ、娯楽はインターネットくらいであり、過度のインターネット依存は精神疾患を引き起こすという実例があるように、植松もまた、精神疾患を引き起こしたのだ。
そのインターネットのデタラメテキストに感化され、そのデタラメを内面化したのが、植松聖であるから、確かに差別を価値観に抱いてしまったのだが、それは、果たして、障害者差別者による大量殺人と言えるのだろうか。
不満のはけ口であるインターネットのデタラメに彼は見つけたのである。自らの環境を変える手段を。それが、障害者はいらない、である。
だが、リアルに物事を考えれば、自らの環境は、または、その障害者施設の環境は障害者が作り出したわけではない。
だが、植松聖は、インターネットのデタラメにリアルを見たのだ。それは、誰しもあることなのではないのか。
障害者が俺をを苦しめている。
それは、実際、介護という重労働の真実とも言えるのだ。介護者は、障害者のいうことに耳を傾け、いわば、従う者として従事する。それは、表現は差別に見られるかもしれないが、介護者は障害者の奴隷なのだ。
その状態に耐えきれない植松が障害者抹殺にむかった。そういうことなのではないか。
植松聖を障害者差別者だと断じるものは、乙武の介護としての性処理に対しても、非難はできないはずだ。
乙武と女性には、信頼があったのだろう。
だが、植松聖は、単に自らの生計を維持するだけで、障害者介護を選んでしまい、仕事として、割り切りもできず、自滅したのだ。
そして、なぜ、介護産業だけに若者や失業者を引き入れるのか。
その歪んだ労働市場、行政にこそ、障害者殺人事件の問題の深層があるのだ。

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