選挙を盲信することはなんら民主主義とは関係ないのである

現在の国家権力に対し、それは不正だ、というような批判の方法は何ら意味はない。
なぜなら、彼らは、合法的に、われわれ人民を抑圧するからである。
たとえば、不正選挙だとか妄想を語らせる選挙も大衆に対する合法的な抑圧手段である。
不正でなくても、選挙そのものが、原理的に少数意見を排除する合法的な制度であることを、何ら疑うことのない民主主義者がいたら、それは、民主主義者でもなんでもなく、選挙制度の盲信者に過ぎず、民主的ではない。
国家権力の細かな現象を不正だ、と指摘する批判スタイルは、ナイーブである。
なぜなら、それは、善を行う国家がどこかにあるだろう、という想像上の政治思想だからである。想像上の政治思想などは、ナイーブと批判されても何らおかしくない。
国家は悪である、が、基本の認識であるから、立憲主義の意味がある。
それは、たとえ、選挙中は、人民の味方面する政党が政権党として存在したら、その人民の味方面する政党を監視するのが、立憲主義である。
選挙とは、アリストテレスが言ったように、寡頭制でしかない。
事実、日本の選挙は供託金が必要である。
寡頭しかいないではないか。
そのようなまさにストレートな寡頭制である選挙に民主主義をみてしまうのは原理的な思考ができていない証拠である。
つまりは鳥越も寡頭ブルジョアジーの断片でしかない。
そのようなブルジョアジーに民主主義を期待するほうが「貴族趣味の腐敗」である。

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