天皇が象徴なら、国民に皇室の歌でしかない君が代を国民に歌わせるな

天皇が日本国の象徴、国民統合の象徴とはどういうことか。
象徴とは、たとえば、中国共産党の長征、それは象徴といえる。ホーチミン市もベトナム人民の象徴であり、それは、ある集団や個人、団体、とにかく、闘いとりその中で重要な記号であったり獲得した権利を象徴と呼ぶのは理解できる。労組のなんとかスト貫徹もその労組の象徴である。
だが、日本国民は大日本帝国のときは、臣民として天皇に支配されており、その支配者が敗戦を迎え、いくら、人間宣言しようが、それは支配者であり、本来、国民統合の象徴になりえるわけではない。ここもまた、スェーデンとは違う。
天皇とは、支配階級の一つであり、それもまた、財閥として日本資本主義を秩序立てたブルジョア階級でありそのような存在が日本国の象徴、国民統合の象徴として憲法に書き込むこと自体が噴飯ものだ。
では、われわれ、日本国民は、どのようにこの天皇の属性である国民統合の象徴を解釈すればいいのか。
それは、天皇制廃止に向けた一過程と捉え、暫定的に天皇を認めるが、最終的には天皇制廃止であり、その天皇制廃止により、逆説的に国民統合の象徴の意味があらわれる。
現在、日本国民が、単に公務でしかないアキヒトの憲法尊重発言(憲法尊重発言もまた政治的発言ではないのか)に感極まり涙を流すような奴隷根性発揮ではなく、アキヒトが日本国憲法から逸脱しないかを監視することが、民主主義である。
日本国民にはアキヒトを監視する憲法上の権利がある。
そして皇室典範なる反民主主義であるけがわらしい典範を中止し、天皇を公務員法に適用することを国民は要求し、そのことにより、日本のガン、あらゆる諸悪の根源である天皇制の廃止をもって、日本国民の奴隷の歴史は終わる。
そして、いくら、天皇制を古来から研究して、それを日本の「文明」とやらと議論付けることになんら意味はない。われわれ、現代人にとっての天皇制とは、明治維新以降の、天皇の4人のことであり、天皇が明治以前、芸能の側にいたとかどうでもいい民俗学的な瑣末な事実は無視していい。
われわれ日本国民にとって、問題視すべきは、政治的存在である天皇(象徴になろうが、それは政治的存在だ、というか、象徴こそがより強力な政治的存在である)に対する、階級としての人民が政治的に対峙することが民主主義であり、天皇が日本の芸能に関係してようが知ったことではない。
天皇とは、打倒されるべきブルジョア階級である。

天皇が日本国民統合の象徴であれば、なぜ、われわれが皇室の歌でしかない君が代を歌わさせられるのか?
逆ではないか、天皇こそ、日本国民の大衆が歌うような、歌を歌うべきだ。
まずは、反日ラップを天皇に歌うように、要求すると主張する。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 社会思想へ
にほんブログ村

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中