どうも、民族、を変革主体としたところに日本戦後左翼の馬鹿の極みがあるな

民族、それは、「nationとはイメージとして想像された政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」(ベネディクト・アンダーソン)である。

ここで大事なポイントは「主権的なものとして想像される」だ。
それは、当然、同一性がその主権の「担保」になってしまう。
でなければ、その主権は想像されない、だ。

だが、権利は、その民族に付与されるのではない。
個人、に付与されるのだ。

つまり個人がベースである人民が「主体」なのだ。

民族左翼と反米左翼はそこが間違っている。
反米だから、日本共産党はバーニーに冷淡なのだ。

そして、沖縄はニライカナイ、だ。
ヤマトンチュは、なにやら怪しげな日本書記だ。

その時点で「民族」は違うが、「神話だから想像だ!」

だが、

個人、人民は、沖縄にもヤマトンチュにも存在する。
その個人、人民に「権利」があるのであって、「民族」にはない。

っていうか、民族が変革主体なら、最初から、日の丸でもあげてろよ、ぼけ、あほ、かす、って話だ。

それが日本戦後左翼の「犯罪」だ。

nationは多民族国家アメリカにもある、のだ。それがnationの本質だ。 つまり、nation は民族ではない。

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