「自分の努力」の「成功」は、本当に「努力」だけであるのか

もっとも疑われるべき観念は「富を築いたものは自分の努力である」というその「観念」である。
この「観念」の所有者が、安倍政権を支えている、とも言える。
ここから考えると、社会排外主義は、その「観念」とつながっている。
外国人を排斥するものは「日本人」で生まれたことが「努力」のたまものなのだ。こういうと意味が分からない、と思われるだろうが、「日本人」を「金持ち」に置き換えてみよ、腑に落ちないか?
だが、「金持ち」にせよ「日本人」にせよ「偶然」だろ?
その「偶然」でしかないことを「努力」であるかのように言いふらすのが「自己責任論」が蔓延した以降の、くるった日本社会である。
外国人排斥者が生活保護バッシングするのも、それは自分たちの「努力」が侵害される、という妄想なのだ。
というのは、それは「偶然」でしょ、という話だ。
逆に言えば、努力を重ねている人は、イチローのように、謙虚であり、丁寧に生きている。
「お前が苦しいのはお前の努力が足りなかったからだ、ゆえにお前をこの強者の俺が助ける必要はない、むしろ、その努力してこなかったのにすがってくるお前を罰するのは正しい」が、安倍政権の「金持ち」の論理であるが、その金持ちは、「世襲」という「偶然」だろ?
安倍政権支持者の金持ちに限らず、人間は自分の「行為」を「努力」といい変え、自分を認めてほしい、という感情がある。
だが、その「努力」は周りの助けや応援や環境的条件もある。
さきほど紹介したイチローは自分の「努力」を誇らないでしょ。
そう、本当に努力しているものは、常に謙虚である。
というかなんで俺はこんな「自己啓発」を書いているのか。それは「努力」なのか「偶然」なのか「神」のみぞ知る。

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