高度経済成長時期の賃金上昇は、労働側の力以上に単に「通産省」が少しばかり労働者側に多く賃金を与えたに過ぎない

日本は通産省主導のプロイセン型重工業国家独占資本主義を、当時の妙なエコノミストや評論家が「社会主義」だと攻撃していた。その言葉が躍る奇妙な時代が、日米構造協議のころから始まり、その流れに竹中平蔵がいる。それが小泉構造改革でいかにも「個」と「自由」が始まる「自由主義的な競争」が始まる、とみられたが、それは、国家独占資本主義の再編成だった。民営化とは国有財産の私営化、つまり資本家の収奪である。
高度経済成長時期の賃金上昇は、労働側の力以上に単に「通産省」が少しばかり労働者側に多く賃金を与えたに過ぎないが、それでも長時間労働により、国際的に見れば日本企業は、賃金ダンピングによる低価格を維持できているから卑怯だ、といわれたものである。
なぜ、私が「労働側の力以上に単に「通産省」が少しばかり労働者側に多く賃金を与えたに過ぎない」と言い切る根拠は、通産省が経済産業省に名前が変わったのが2001年だが、その4年前の1997年ごろから賃金低下が始まり、その前年は村山政権による「社会党解体」がすでに完成しており、アヒルの総評は窒素し、もううるさいアヒルは消えてしまい、なにも遠慮することなく、賃金の分配を気にすることなくなった、そう言う意味で言えば、アヒルは一定の機能はあったが、それさえ解体されれば、労働側に分配する必要もなく、また当時1997年不況が、賃金の全般的低下に対して正当な根拠を左派さえ共有してしまったのであろう。以上がその根拠である。
そして、賃金の全般的低下を労働側は食い止めることができていない。その食い止めることができないことも「労働側の力以上に単に「通産省」が少しばかり労働者側に多く賃金を与えたに過ぎない」の根拠である。
やる気のない春闘など、意味がない。非正規の僕から見ればそれは「労働貴族」のお遊びだ。
労働運動とはなにより「労働者の生活向上」であるから、賃金の全般的低下を無視したままの政治ストなど意味がない。むしろ、そのストは自身の力不足の「否認」を行う危険な行為である。
まず、なによりも労働側は1997年以降の賃金低下を軽視してはいけない。
その賃金低下は、階級としての労働者階級の敗北である。その敗北を見ないものがいくら反安倍だとか叫んでも時間の無駄である。

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