#保育園落ちた日本死ね こそ言論の自由のモデル である

ブルジョアジーがプロレタリアートから搾取労働と収奪により出来上がった資産を使い高級な教育を受け、上品な言葉を使い、収奪される側の ‪#‎保育園落ちた日本死ね‬ の見かけの言葉の汚さを批判するのは、毎日体を洗えないホームレスの臭いを嫌がるようなことに似たくだらないブルジョア道徳だ。
そのブルジョア道徳が、マルクスが定義した、その時代のイデオロギーは支配者のイデオロギー、つまり、ドイツ・イデオロギーだ。

階級論の不在が、ヘイトスピーチや名誉棄損、侮蔑、暴言…といった「言葉」の「暴力」のその本質的意味が理解されずに、単なる汚い言葉を使ってはいけませんね、という上品な接客用語技術に化した定義に陥る。
いったい、力の弱いこどもが、力の強い大人に「お父さんなんか死んでしまえ~」といったところで「ヘイト」になるのか。
そういう視点が不在だ。

#‎死ね‬ と罵倒された ‪#‎日本‬ とは ‪#‎日本政府‬ であり、その #日本政府 の無策に対して、人民がいくら汚い言葉を使おうが、それは正当な言論の自由の「rights 」だ。
‪#‎保育園落ちた日本死ね‬ は言論の自由のモデルである。
いったい、教育費が高い日本社会で、人民が、教育ある言葉、忙しい労働で、上品な言葉で、政府を批判することを求めるその感性こそが、抑圧である。
その抑圧に「ブルジョア左翼」まで加担する。

#保育園落ちた日本死ね は正当な人民の基本的人権のひとつである、「言論の自由」を行使したまでだ。

ひとこと注文すれば、#保育園落ちた日本政府馬鹿 とブログに書けばその問題の本質性がより露わになった。

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