日本語の他人、という言葉がすでにヨソヨソしい自己責任論を抱え込んでいる

日本語の他人、という言葉がすでにヨソヨソしい自己責任論を抱え込んでいる、とぼくは認識しながら、他人という単語を使いますね。
日本語の他人は世間様と同義の、じつは、他と名指される外部ではない。世間のことであり、ナルシスな自分のことを指しているのだ。
そもそも、他、ですからね。
人間に他とつける感覚は、僕から見ると不思議なんですよ。
お前、おれにとっての「他」だよなあ。
これ、なんかおかしくないか。
ぼくだけかなあ、そう感じるのは。
他人と名付けることで、どう扱ってもいい、としか僕には見えない。
だから、派遣労働者は、企業の「他人」、または、企業の直雇用の「他人」として、どう扱われても構わない「人」と化して、使い捨てにされる。
日本語の「他人」は、「他人事」という単語が示すように、それは、私には一切関わりたくない、ナルシスの保護感情から生まれた単語ではないか。
だって、フツーにいやあ、君も僕と同じうんこする人間だからな、といえばいいですからね。
え?うんこは一言多い?
他人の他は、外部ではないから、外部のはずの人間が批判しようが、それは聞きとめるべき批判ではなく、口答えするのか貴様、という感情になり、日本の男、ができあがる。
他人とは、威張りたいだけのナルシス日本男を支える外部なき「自」を位置づけるための便利言葉であり、「自」とはいうまでもなく、「自慰」の「自」である。

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