差別に反対するのにいちいち「日本人として」と枕詞を付けなければ気が済まない無邪気な「抵抗ナショナリスト」

「日本人として」差別反対します、とか、「日本人として」慰安婦に謝罪します、は、国家権力者の責任である謝罪を、「一日本人」が、身代わりにさせられている、ことに、無邪気な「反差別」、無邪気な「自称リベラル」、無邪気な「反安倍」は気づかない。
言うべきは、私、○○の名において、一個人として、慰安婦問題の事実を後世に伝えていきたい、というべきではないか。
また、私、○○の名において、一個人として、差別に反対します。なにができるかわかりませんが、私の価値観は、人権を守りたい、といえばいいのではないか。
いい加減、「日本人として」と枕詞をつけるのはやめよう。
差別に反対する、または人権問題に対して誠実な対応を示すのは、国籍や民族、人種は問われない普遍的な価値観であり、むしろそういう価値観は、「日本人として」という枕詞は、不必要な世界ではないか。
たとえば、「日本人として」私は小津安二郎を、外国人に知らせたい(まあ、もうすでに知られていますが)は、正しい。それは明らかに日本人の映画監督であ り、同じ国にたまたま生まれて、自国の文化を知らせるのは、「日本人として」という枕詞はついてもおかしくない。というか、外国人から「お前、日本のどこ がいい?」と訊かれたら、そうだなあ、小津安二郎の映画だ、とかそういうことになる。
だが、普遍的な価値観である人権に、不必要なまでに「日本人として」と人権を守る、は私は訊いていて、同じ日本人として見苦しく聞こえる。これは、僕の感覚かもしれないが。
だが、私、〇〇の名において、人権を擁護する、と宣言すると、ここに個人主義が存在している、と明らかに「人権」に即している。
人権の発言をするときに「日本人として」という枕詞をつけるのはやめよう。そもそも、「日本人として」というあんたは国家の代表者なのか、だとすれば、それはずうずうしい、だ。

あんたは「主権者」の「一人」であって、国家の代表ではない。そこがわからなければ代議制民主主義など永遠にわからない。

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