「国民なめんな」を市民に変えようが、その発話者の本質は変わらない、差別する側である

「国民なめんな」を市民に変えようが、その発話者の本質は変わらない。その発話者は「差別する側」だ。
「日本国民と日本民族」が同一視されたころの意識の残滓が中曽根政権以降延々と続くグローバリゼーションによる日本資本主義の多国籍化が、日本民族という名の労働力の優位性を崩壊させたことからくる存在不安が「国民なめんな」という自分の差別性を吐露させたにすぎない。
その存在不安は在特会も共有しており、それは彼らはストレートに「韓国人帰れ」ということであり、SEALD’Sの「国民なめんな」は在特会の「韓国人帰れ」とまったく同じ機能を果たす、「差別」である。
ちなみに在特会も「市民」という言葉を好んで使う。
市民とは、当たり障りのない私は標準タイプを偽装したいものが使う「官製用語」である。そもそも「市民」は地方自治の概念ではないか?国政で「市民連合」なる言葉を使用できてしまうこと自体、政治音痴ではないか?
国政、世界の悪政に立ち向かうには、
階級、と、人民、の二種類の言葉しかない。
それは基礎知識である。


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