市民連合は、壁にすぐ当たるな

市民連合は、壁にすぐ当たるな。
というのは、その連合が山口二郎と中野晃一の学者の意見に拘束されてしまうからだ。これは闘う上では極めて、障害だ。
闘う組織のトップが、学者ではなく、その組織に責任を置く「運動家」が、学者をアドバイザリー・ボードとしておくのはあるが、あくまで闘争の主体はその組織の「民衆」である。「トップ」はその「民衆」の「トップ」でなければならないのだ。
その闘争の責任を誰が持つのか、だ。
仮に、山口二郎と中野晃一がその学問から生まれた政策・戦術で闘争が決められ、勝てばいいが、負けた、安倍政権手ごわい、では済まないのである。
民衆とその運動家の関係こそが闘争の決死を決めるのであり、学説ではない。学説はあくまで武器だ。
現在の市民連合は、闘争の組織ではなく、いままだ勉強する組織でしかない。であれば、なにも「闘う」必要はないのである。

そして市民連合の最大の致命点は、それが「排除」の上に成り立つシステムであることを中野晃一と山口二郎が「学者」であるがゆえに招いてしまうのだ。
その学者の学説に反対するものは参加したくない、それは大きな致命点だ。
運動が拡大できないのだ。
だが、「運動家」「政治家」が主導する運動にはそのような学説がなく、現在の政治状況を打破する政策をアピールし、そのアピールを浸透するまで行う。聞く民衆も、そのアピールだけに感化される。だが、「学説」が先にあると、違和感を感じるのではないだろうか。

市民連合が名ばかり市民連合になる可能性は高い。

逆に言えばSEALD’sは山口二郎にはせ参じたことで、彼らが結局、山口二郎に屈服せざるを得なくなる。それは山口二郎氏の人格を言っているわけではない。私は会ったこともない。
屈服せざるを得なくなるのは、それは構造が強いるのだ。
それはSEALD’sにとっての運動の弱体化を招く。
SEALD’sの運動が山口二郎に規定されてしまうのだ、「学生運動なのに」


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