日本の野党と学者は人民から批判されないから、成長できず、その結果、零落する

日本の学者は、われわれ苦海の中に生きる人民から批判されずに、ぬくぬくと育ってきたからその結果、学問はあまりにもばかばかしい戯言の集積になり、そのシンボルが、あの女の子、STAP細胞の女の子、名前忘れた、ああいうものになる。思い出した、小保方さんだ、まあ、顔は柴犬みたいで日本人好みだよね(笑)
それは「文系」と言われるような学問もそうだ。
というか、余談だが、資本論を読むのに絶対的に数学的要素は必須なので、この文系・理系という区別がよくわからない。だったら、語学はどっちなの?と思いません?
「文系」では、たとえば、渡辺昇一のようなカスが、生きていられるのは、渡辺昇一を人民が批判せず、バカなしばき隊という本当にバカが、こういうメインストリームの「ヘイトスピーカー学者」を「なぜか」「批判」せず、(まあ、所詮、野間も業界人感覚の「カルチャー系」軽薄馬鹿だから)、大衆の在特会に中指を立てて、なにをしたいのかわからないパフォーマンスに終始して、結果、「ヘイトスピーチ」とやらは、根絶できていないばかりか、むしろ、拡大している、この「過程」が「弁証法」だ。それはともかく、渡辺昇一のようなカスをそれも極端なことを言えば、文革で学者をさらしものにしたように、さらしものにするくらい、徹底批判しないと、「ヘイトスピーチ」とやらは根絶できない。もとをたたかないと、ゴキブリは消えない、の法則はここでも生きている。
これは、いかにも人民側についているかのようなブルジョア学者にも言えている。
まず、上野千鶴子だ。こやつは、朴裕河の「和解のために」の解説のフェミ学者だが、(フェミと短縮する。)そういう関係だからか、朴裕河を提訴したのが元慰安婦なのに、なぜか検察からの言論弾圧という問題にすりかえ、言論には言論を、という極めて抽象的な、アカデミズムの上野にはコーヒー付き(は俺の想像、それはないかも)で保障されているだろうその「特権」を、まったく言論の場がない元・慰安婦に説教する「アカハラ」を公然と、しかも「徒党」を組んで(その中には相変わらず大江健三郎という方がいますが?)行う、という破廉恥行為の記者会見したのである。
このような「アカハラ」学者がのさばるのも、われわれ人民が、学者のお説にへへえ、とそのかしこまるその奴隷根性にある。
言論には言論なら、徹底的に上野千鶴子を人民は批判すべきである。そこでああだこうだ、言ったら、貴様は「言論には言論を」と言ったではないか、と言えばいい。
それは野党にも言えている。特に自称「確かな野党」だ。あえて名を明かさない(笑)
この野党は、人民からの批判にはとてももろく、特に支持者がそうだが、批判されたらキレて、あなたがたは理解していない、だの、上から目線で、説教するこれまた「アカハラ」である。この場合の「アカ」はダブルミーニングだ。
その姿勢を変えられないから、いつまでたっても政界の阪神といわれるのだ。え?誰も言ってないってか。阪神は優勝するが、この「確かな野党」は優勝は一度もない。しかも、この「確かな野党」は小沢一郎にはへへえ、とかしこまるとってもコマッタちゃんである。見よ、人民からの批判を受けずに内向きに凝り固まったその姿勢が進むと、しぼんでいくのだ。そして今となっては「アレルギー」だとか言い出して、零落したにもかかわらず、相変わらず小林よしのりのゴーマニズムを超えたゴーマンさで、人民から嫌われた。
こういうへぼい連中を金輪際、生まないためにまずは、学者批判である。
学者の意見を聞いて、読んで、疑問を感じたら、まず、質問だ。
その質問に対し、忙しいだの、そういう返事が来たら、

一体お前のどこに「学問の自由」があるのか。

と糾弾すべし。

余談だが、市民連合は、見方によれば、アカハラ問題ともいえる。
その市民に山口二郎に敢然と批判する「市民」はいない。
それは、アカハラだ。

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