ヘイトスピーチに対する反対が盛り上がっても減らずにかえって拡大するのはなぜなのか?

ヘイトスピーチに対する関心、反対が盛り上がっているのに、なぜ、減らずにかえって拡大しているのは、そのヘイトスピーチに対する「反対運動」がヘイトスピーチへの「ヘイト」になっているからではないか。だから、どっちもどっちと「しばき隊」は批判されてしまう。
これは簡単に言えばこういうことだ。
あるいじめっ子がいる、そのいじめっ子を懲らしめるために、いじめっ子を無視しよう、とクラス全員で行えば、その行為は確かにそのいじめっ子のいじめは規制されたが、「いじめ」は消えていない。
では、いじめをなくすにはどうするか?
それは一朝一夕には消えない。
なぜなら人間には攻撃性がある、それは消えない。
というかね、人間は不快な感情をもったら無意識に「憎悪」を抱いている。その自覚を持つべきだと私も含めて考える。
「どんなに自由に平和主義的に子供を育てても、攻撃性は残る。重要なのはそれを認識することです。」と柄谷行人は「倫理21」でフロイトの死の欲動を踏まえ述べている。そして「もちろん認識があっても事態が変わるかどうかはわからない。しかし、少なくとも、間違った対処や幻滅はなくなるでしょう。」と続けている。
「人間の攻撃性は残る」という「認識」を踏まえ、いかに「いじめ」に対処するか?である。
それは「教育」ではないか?
柄谷行人は「対処」を述べていないが、「倫理21」を読んだ私としては、いじめへの対処は「教育」である、と考える。
だが、その「教育」は日本の現在行われている見せかけの「民主主義教育」ではない。というか「教育」に「民主主義」という政治的概念を冠に置くことに私には違和感がある。
教育についてはこれ以上、述べない。
なぜなら、私は誰も教育していないからだ。
であれば、ヘイトスピーチに対する対処は中指を突き立てることであろうか?
むしろ、自然とヘイトスピーチが言えにくい「環境」を作ることであり、それは「ヘイトスピーチ規制」という「反転」する「ヘイト」によっては、実現できないのではないか?
そして、現在、主権在民から基本的人権の剥奪を進行中の安倍政権では絶対に「ヘイトスピーチ規制」をしてはいけない。
その「ヘイトスピーチ規制」という「ヘイト」は国家権力により、特に安倍政権のような「独裁願望」の高い人間が人権抑圧のツールとして「規制」したくなるのだ、それはヘイトスピーチに定義された「ヘイトスピーチ」ではなく、安倍政権に定義された「ヘイトスピーチ」である。その中には安倍政権への批判も「ヘイトスピーチ」にされてしまうのだ。
さらに重要なことは、現在進行している日本政府の国家建設と言えないほどの国家建設は秘密保護法は施行され、安保法制は可決され、そして全権委任法も視野に入っている。このような監獄社会では「ヘイトスピーチ」すらいえない自由への弾圧がはじまる。
決して安倍政権下で「ヘイトスピーチ規制」を行わせてはいけない。


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