SEALD’sは立ち上がれない人間の「カタルシス」としてしか機能していない

SEALD’Sを持ち上げる論調はわからなくもない。
だが、そこには陥穽があるのだ。
問題は、多くの一般大衆労働者は、使用者からの身近な労働条件の切り下げ、権利侵害に対して、泣き寝入りして、その自分の無力を「否認」するために、「SEALD’S、奥田くん、偉い」と共感し、もしくは、インターネットで書き込むのは、すでにその時点で政治的挫折、敗北である。政治と労働現場は別だ、とSEALD’Sを応援することでしかできない「立ち上がれない」あなたから言われても説得性はない。身近な労働現場を少しでも改善しないあなたがなぜ、マクロな政治である安倍政権を打倒できるのか?
少し考えてみればわかるではないか。
国家₌資本にとって脅威なのは国会公聴会に出た奥田くんではない。実際、彼が公聴会に出ようが。議員は寝ているのだ。その程度の存在が「奥田愛基」だ。だが、奥田くんは起きてください、と抗議した。その抗議にこそ民主主義である。
では国家₌資本にとって脅威なのは、末端労働者が、権利取得に向けて様々な壁を破って、主張してくることなのだ。
国家₌資本から見たら使い捨て労働者が、たとえば有給休暇の取得を敢然と主張したとき、国家₌資本は恐れるのだ。なぜならその主張が、企業内にもしくは拡大して同一産業内に、さらに国全体に拡大するほうが、国会前デモより恐怖である。この主張は、文化人は認めないだろう。山口二郎のような茂木健一郎のようなインチキ学者が「労働者」の権利を擁護するわけがない。このインチキ学者どもは、あくまでおしゃれかつデモ後には掃除する「純粋な学生」であれば自分が御しやすいからSEALD’Sに賛同する、反動学者どもである。
末端の使い捨て労働者、たとえば非正規約2000万人が、同時に有給休暇取得アクションなることをやられたら国家₌資本はこたえるはずだ。
だが、その非正規が立ち上がったら連合が押さえにかかってくるのだ。
その連合に正規も労務管理で押さえられ、その連合に属する労働者は自分の労働条件は泣き寝入りし、SEALD’Sを応援するのは、単なる「カタルシス」である。
民主主義とは、だれかヒーローが先頭をきって時代を改革することではない。それでは小泉に期待した大衆と変わりない。
民主主義とは、自分の周囲の矛盾を解決することから始まる。その解決もできないのに、なぜ国家政治を変えることができるのか?

まず、学生は、学校の自主管理を目指す闘争からはじめるべきだ。
まず、ママたちは、ママ友のボスを追い出すことからはじめることだ。
それが民主主義だ。

そして厳しいことをいうが、連合に加入している労働者は、連合の改革を目指さない限り、いくらSEALD’Sを応援しようが、安倍政権を批判しようが、「カタルシス」でしかない。

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