デモは政党主導で行なわなければならない理由

先進国は管理社会であり支配階級の組織的抑圧が人民に日常的に続いているので、組織に対する毛嫌いが諸個人に広がっている。
そのひとつが、資本主義肯定に走ると「独立」を選ぶ。とはいっても中には資本主義が嫌いだから「独立」するというタイプもいる(笑)
そしてもうひとつが、やけに普通の市民性を強調する「社会運動」だ。
後者は、先進国共通の現象かもしれない(日本だけか?)
わたしたちは、既成政党と違うオルタナティブだ、といくら主張しようが、社会が変わっていない限り、それは「オルタナティブ」ではあるが、「力」はない。
ちなみに市民性をやたら強調する運動のひとつに「在特会」がある。(笑)
「在特会」もまたさきほど述べた先進国(というか日本だけか)の現象である「やけに普通の市民性を強調する「社会運動」」でもある。ここをまずさえなければならない。こういうこというと、短絡的なバカは、こいつ、ネット右翼だ、とわめくだろうが、まあ、そんな短絡バカはほうっておく。そのバカは原理的思考、定義についての思考、を欠いたまさにそれこそ「平均的日本人=ほぼネット右翼の卵」である。
多くの日本人は、口ではいくら平和だの民主だの叫ぼうが、原理的思考を欠いているのでいつでもご都合主義的に「多数派」につくという「いかにも民主主義は数だ」という悪いパターンを自ら示している。
話を戻す、実際、「在特会」の行動は既成右翼に対する自称オルタナティブな右翼(彼らは右翼ともいわれたくない「市民」である)
ここまで読んで気づいた人はいると思うが、実はSEALD’Sもやたら普通の市民性を強調し、既成政党を嫌うそのオルタナティブ性が「在特会」とそっくりであることに気が付かなければならない。SEALD’Sは左翼と呼ばれたくないから、中核派をやけに排除するが、在特会は既成右翼から排除されている。
なんと、行動原理はそっくりなのだ。
相変わらず、表面でしか物事を判断できない多くの「平均的日本人=ほぼネット右翼の卵」は顔が違うだの、奥田くんのほうがイケメンだのセンスがいいだの、絶対SEALD’Sはネット右翼ではない、と頑強に言い張るだろう、その言い張りがまさに「平均的日本人=ほぼネット右翼の卵」の思考なき感情論である。
SEALD’S、在特会、ともにアンチ既成、そして「普通の市民の強調」。
SEALD’Sも在特会も「われわれは普通の市民で~す」だけしか「オリジナリティ」を打ち出すことしかできないまさに抑圧社会の産物である。
簡単にいえば、既成の社会構造から逃れる手段としての「社会運動」でもある。
または自分探し系の「社会運動」とも呼ぶ、それがSEALD’Sと在特会だ。
それは現象的に言えば、小金持ちの観念的な遊戯だ。
アトム化したばらばらの人間の不確かな結びつきを、確かさを求めて「自分探し」をするような「心理」でもある。ちなみに、ブラック企業はこの「自分探し」の手法を使用する。
ということはSEALD’S、在特会、ブラック企業、それは共通点があり、「自分探し系」であるということでもある。さらに話を広げれば、自爆テロというのがあるけど、これも「自分探し系」である。
「自分探し系」は所得があるブルジョアジーである。
貧乏人が、自分を探している時間はない、貧乏人は、仕事を探している(笑)
よくあるデマのひとつにネット右翼は貧困層だとかいう高所得高学歴知識人のイヤミな言葉があるが、さすがに高学歴だけあってこいつら貧困層の実態をつかめていない、彼らはグラフか統計だけ見て感想を述べる社会をわかっていない「社会学者」」が多い。(誰も古市憲寿や津田大介とは言っていない)。
常識的に考えれば貧困層はデモより仕事だ!(笑)
そんなガキでもわかる常識を知らないのが「高所得高学歴知識人」である。(だから誰も古市憲寿や津田大介とは言っていない)
そういう空虚な先進国に住む所得あるブルジョアジーの「自分探し」系デモがSEALD’Sや在特会だ。
これら先進国(というか日本だけか)のフツーに生活をしている庶民が見たらドン引きするデモ(SEALD’S!)は一刻も早く止めないと、国会前が自分探しの解放区になってしまう。(笑)それはさけたい。
在特会も新大久保で韓国人帰れ、のそのコールは「自分探し」のひとつのバージョンである。
というのは「韓国人帰れ」といえば、言った自分は「俺って日本人だから」と自分を見つけてしまう。(よかったよかった(苦笑))
そのようなデモは病理である。見ていて気色悪い(在特だけじゃなくSEALD’sもね)。
ゆえに早く一刻もやめていただきたい。(在特だけじゃなくSEALD’Sもね)
そして、そんな病理のデモを主体的なまさに「市民のデモ」として行うのは、政党や労働組合ほか中間組織の指導がデモを自分探し系という病理に陥らないようにする。それは「啓蒙」なのだ。(現代日本はいまだ18世紀のドイツである。)
「啓蒙」だから、それは当然、抑圧的なモノだし、うっとうしいのだ。
だがそのうっとうしさこそが、あなたの「市民」としての「自由」を守るのだ。
組織に守られた自由なんて自由じゃないと、ロマンチックに叫び、組織から出た瞬間、支配者はあなたの自由を一挙に剥奪する。
つまり、「自由」とは「自分探し」ではなく、「力」だ。その「力」を保障するのは「人権」ではない。「社会に存在する中間組織」だ。これら「中間組織」が国家や企業にあれこれ自分の「権利というか利権?」を注文するから、単なる個人のまったく無力なあなたの「言論の自由」とやらも保障される。中間組織に入るから「政府に抗議できる自由」が拡大できるのであって、入らなければ、ネットで書き込むか、愚痴か、泣き寝入りで終わる。
だったら法は何だ!とあなたは叫ぶだろう。
だが、法は確かに永久であるかのような顔をしているが、実質上、暫定的な空文句であることが多い。その現実が安保法制だ。それはいくら日本国憲法第9条があろうが、人民がその権利を「力=中間組織」として行使しない限り、いつでも権力者は踏みにじりたいのだ。
そのような社会を前にして「中間組織の指導」を欠いたデモはSEALD’Sを見ればわかるが、なんら「力」を有しない。いくら数を集めようが、それは「群衆」でしかない。群衆の意見はどこに反映されるのだろうか?
そう、政党ではないか?
政党指導のデモはまさにそのデモが票につなげることが目的であるので、民主主義の意義を果たすのだ。
だが、SEALD’sのような在特会のような既成政党を嫌うデモの声はいったい議会にどうやって反映できるのか。
確かに自民党も在特会並みの意見を述べる政治家もいるが(誰も安倍だといってへんわw)その意見は在特会の意見ではなく、在特会風でしかない。それは民主政治ではない。
差別活動を行うやつはそもそも反民主主義ではないか、とあなたは血相を変えていうだろうが、それは「反人権的」であることだけであって、「民主主義」ではないということはいえない。
SEALD’Sはやたら日本共産党との関係性を疑われたが、それは政党指導のデモでなければ政治的力を帯びない、をわかっていないから、疑われてしまうのである。
最初からわれわれは〇〇党の下部組織だ、と宣言すれば、周囲もそうか、なるほど!で明確化し、さらに票につながる可能性もあり、また、中核派の情宣など気にならなくなる。
というのは〇〇党の下部組織と最初から言っておけば、中核派のビラを渡された「普通の?市民」がこういう組織もあるのか、で終わる。(そこで終わらなければ、普通じゃないよねw、だ)
さらにいえば、デモを国会前で行えば、そのデモが政党指導が明確であれば、背景にある「群衆」に敵対政党も気押されるというものだ。
だが、SEALD’Sがいくら国会前でデモしようがなんら議会にいい影響を与えない。むしろ、日本共産党の志位の国民連合政府の提案というこれまた野党分裂を加速させるようなマイナスの影響を与えてしまう。これが政党指導であれば、その群衆をみたほか野党が、「共闘」ですね、とこっちからではなくほかから言ってくる可能性もある。

 

以上、だらだら書いた雑文が「デモは政党主導で行なわなければならない理由」だ。

つまり現在、既成政党を毛嫌うデモは自分探し系の、そっとしておいてくれ、という若者特有の媚態の表現だから、気色悪いのである。

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