ナショナリズムについての簡単なコラム

「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」(アーネスト・ゲルナー) がナショナリズムの定義。この定義を読んでいたら、同じ民族の安倍首相にナショナリストとして反対運動を形成するのは、奇妙に感じる。「階級性の喪失」が「ナショナリズム」をまるで「宗教」のように存立させるが、ナショナリズムそれ自体、宗教に意味を持ち得なくなった以降の「永遠の死」を想像上の領域で保障する。それは例えば、靖国神社だ。
また、ナショナリズムは、マルクス主義破産以降の第三世界の「解放理論」として、受け入れられている。「アラブの春」なんかそうだ。
日本のナショナリズムはむしろ「アメリカの従属論」で日本の現在すべてを説明できてしまうと固く信じている「左派」のほうが陥っている。
だが、「アメリカの従属論」は、日本政府の責任を無化する官僚の悪知恵であって、その悪知恵に、政府に反対しているつもりの「左派」がナショナリストの自分が傷つかないように自分の理論を保護している。その代表が日共系の論客だ。
日本でナショナリズム運動を拡大させるには、仕掛けが必要である、その仕掛けが「アメリカの従属論」という日共系論客や左派論客のお好みのフレーズだ。実は日本のナショナリズムを積極的に担っているのは奇妙なことに「左派」である(笑)
日本のナショナリズムは、実は、「左派」が第三世界の「解放理論」を密輸入した「まがい物」である。それは戦後の抵抗ナショナリストである。
たとえば、最近の若者のデモはラップ調だが、まさに「ニューヨーク」の「第三世界」である黒人スラムの「解放音楽」を受け入れている、このことは広義の意味における「ポストコロニアリズム」を自分に内面化した結果であり、それは「ワールドミュージック」を聞く態度と何ら変わりない。それは「元禄町人」である。
そして、日本の官製イデオロギーは西洋のナショナリズムを密輸入した。それは伊藤博文にはじまる。
その西洋化の結果が「靖国神社」なのだ。
つまり、ナショナリズムは、遠く過去から存在する価値観ではない。
ナショナリズムを批判するのにいちいち「古事記」やら「日本書記」など読む必要性はない。
近・現代史をたどれば、ナショナリズム批判は充分できる。

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