民主主義とは何か?デモのあと国家の役人にごみ掃除をさせることだ

多くの日本の大衆は「民主主義」「民主主義」というわりには、「民主主義」の「意味」をわかっていない。
だから、SEALD’Sがデモのあと、ゴミ拾いをしていることに、なぜか「感動」している。
その「感動」こそ「奴隷根性」だ。
「真」の「民主主義者」は、SEALD’sがゴミ拾いをしていたら、なぜ、国家の役人に行わせないのか?
と問えるものである。
デモで出たゴミをデモ隊が行ったら「自己責任」ではないか?
まさに「新自由主義」の権化である。
国家の役人とは、いわずもがな、公務員である。
公務員とは?

その定義は、国家の役人が定義するものでもなければ資本家やその奴隷の文化人が定義するものではない。
公務員の定義は、われわれ人民の権利の章典である「日本国憲法」に書かれてある。

第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
第2項  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
第3項  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
第4項  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 

私が、公務員にデモのあとのゴミ拾いをさせろ、という法的根拠は第2項にある。

第2項  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

そしてダメ押しをするが、

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

人民の権利である「デモ」(集会の自由)を行なった結果、発生したゴミを片付けるのは、人民の下僕である「公務員」であることは決まっているではないか。

そのことに疑問を抱くのは、あなたが国家からいい子ちゃんであることを承認されたい「奴隷」だからだ。

だが「真の民主主義者」そして「人民主権主義者」は、デモはわれわれ人民の権利を行使したまでに過ぎない、そこから出たゴミなどは人民の下僕である公務員にやらせろ。なんだったら、安倍晋三、お前やれ、と主張するものが「真の民主主義者」である。
そして、われわれは税金を支払っている。その税金はデモのあと公務員にゴミ拾いさせるためにある。
そう考えられないのは「奴隷」である。

デモは観光地で発生したゴミではない。それは人民と国家権力のぶつかりあいであり、力の闘いであるがゆえ、デモのあとのゴミ拾いを公務員にさせることに徹底的にこだわること、その細部にこだわりぬくことが「民主主義」だ。デモのあと、ゴミ拾いを公務員が行える時代は生活保護も削減されない。このことがわからない奴は「公共の福祉」をわかっていない「奴隷」である。

安保法制をつぶす前にデモのあと公務員に掃除させることにこだわりぬくことこそが「民主主義」だ。細部に魂は宿るのだ。

私の論理を理解できないのはそれがいかに自分で「民主主義者」だと言おうが、それは「外見的民主主義」である。多くの日本大衆は「外見的民主主義」で満足する「奴隷」である。

いくらSEALD’Sの奥田が国会の公聴会で寝ている政治家を注意しようが、その程度を「胆力」と評価する「内田樹」も相当ぼけているというか、(もしかして、ひそひそ…バカ?)、そのあと、しおらしくデモのあとゴミ拾いをしている奥田は「敗北」しているじゃねえか?

デモのあとのゴミ拾いをを公務員にさせることもできないのに、
なにが「安保法案」をつぶすだ?
ちゃんちゃらおかしいわ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 社会思想へ
にほんブログ村

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中