自由は闘いを通じてでない保障されないし、勝ち取った自由は1日で無駄になることもある

どこまで人民の表現の自由、言論の自由が国家によって蹂躙されないように保障を拡大できるのか、という問いとその仕組みがないから会田誠の作品撤去はいとも簡単に行政権力によって行なわれる。
この場合、キュレーターは労働者だから、労組結成をあらかじめ行い、もし、会田誠の作品撤去が命じられたら、それはいかなる法に基づく指揮権限であるかを、団体交渉で要求する、もしくはキュレーターは作品撤去反対ビラを労働は商品ではない、というような論理と絡めて、闘う姿勢を見せることだ。
自由は闘いを通じてでない保障されないし、勝ち取った自由は1日で無駄になることもある。
権利は天賦人権論だが、その権利を拡大するには、不断の努力が必要なのだ。
現在、言論・表現・結社の自由などの自由が国家によって侵害されるのは、人民の不断の努力ができる組織の衰退がその背景にある。
たとえば、いい子ちゃんリベラルのSEALD’sが嫌悪する新左翼セクトも方法は間違っていたかもしれないが、言論・表現・結社の自由を侵害させないために火炎瓶を投げていたのだ。その火炎瓶があったからこそ、人民の自由は保障されていたことにいい子ちゃんリベラルのSEALD’sは気付かない。
さらに、言論の自由そのものを逆説的に保障したのは、部落解放同盟の糾弾闘争である。この激しい闘争が終焉したから百田は暴言できるのだ。いうまでもなく百田の暴言は言論抑圧である、その抑圧できる権力側の自由を「殺す」ためにこそ人民の「言論の自由」はある。

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