商品の説明は「使用価値」「交換価値」と「価値」そのものの説明が必要である

マルクスの資本論では「商品」を説明するときに「使用価値」と「交換価値」の二種類に大別して説明されるが、と
いうか「資本論」を説明する人が「使用価値」と「交換価値」の二種類に大別して説明する。
わたしはこの説明に疑問を感じていた。
というのは、「使用価値」「交換価値」そこまではいい。だが、問題が残る。
「価値」そのものの「説明」をされていないことだ。
なぜ、「価値」が自明のまま進むのか。わたしにはわからない謎である。
謎なので「資本論」を取り出してみると、
「第1章 商品」 「第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)」とある。
確かにこの節では「使用価値」と「交換価値」の説明をマルクスお得意の哲学的な語りで進める。そして、「価値」
の説明もまたマルクスは行う。
「そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろ
しのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない
人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表しているのは、ただその生産に人
間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な
社会的実体の結晶として、これらのものは価値─商品価値なのである。」
ここで、極めてマルクスは重要なことを語ってしまっている。
「商品」は労働生産物でまぼろしのようなものといい、そのまぼろしこそが「価値」である、と。というかまぼろしの
「社会的実体の結晶」こそが「商品」の「価値」である、と。
「商品」はまぼろしだったんだよ。
このことの認識は重要だ。
この認識は商品に競争のために「付加価値」とやらを見出す「経営者」の言葉にだまされなくなる。
なぜなら商品は「ただその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけ
である」からだ。ゆえに「付加価値を出さないから賃金を不当におさられるというような経営者のゴタク」は「労働
力」をすでに提供しているからその「支出」分に対応した「賃金」払え、ということにもなる。

資本論は今でも「労働者階級」のバイブルである。

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