SEALD’sが口にする国民とは大衆の意味で使っていると私はとらえています

SEALD’sが口にする国民とは大衆もしくは消費者の意味で使っているのです。国民なめんなよ、は大衆なめんなよ、でしょう。
彼らSEALD’s のステイトメントもそれは大衆が得た情報のアレンジでしょう。
SEALD’sは学生なんだから、学生なめんなよ、とストレートに言ったほうが運動の力が弾むはずなんですよ。
国民はだいたいにおいて「政治家」が使う、国民の皆さん、と。彼らは自分たちをプチ官僚と勘違いしていないか。
リーダーシップ、とか、ポテンシャル、とか、軍縮、民主、それらは大衆が好む記号なのです。平和もそうですね。
もしくは大衆が普段接する雑誌やテレビから送り出されるいかにも教養なのです。
彼らが口にする国民は大衆の意味で使用しているその根拠のひとつに大衆は学者からもしくは学者でなくても知識人から間違いを指摘されたり、批判を受けると、その受け止めを上から目線と感じてしまうことです。いつも大衆は知識人を毛嫌っているのです。
SEALD’s の言葉の使用は大衆的なカオスに満ちている。その大衆のカオスに、逆に政治家や文化人は応援したくなる。そのカオスは自分にないものだからです。志位委員長に大衆のカオスがあるでしょうか。山口二郎に大衆のカオスがあるでしょうか。彼らは理性的な国家官僚タイプではないでしょうか。むしろ、国家官僚タイプは大衆を味方にしたいものです。
むしろ、SEALD’sのステイトメントほか言葉に批判を向けるのは大衆に近い知識人です。
大衆に近い知識人はSEALD’sの政治デモそのものを否定はしないが、否定しないからこそ、我がごとのように、SEALD’Sの言葉につきあい、その言葉を吟味し、間違いを指摘し、批判する。
SEALD’Sの言葉を批判するものに対してSEALD’s及びSEALD’sの支援を自称するような、例えば野間のようなデモの興業主みたいな人は、SEALD’sを擁護するために言葉の問題だろ、とか、若者らしい間違いだ、みたいなことをのべるのですが、それは擁護ではなく、デモという興業の自ら関わった成果を誇りたいために必死に守るのです。
彼ら支援者は民主主義を確立したいわけでもなければ安倍政権を打倒したいわけではない、それは騒ぐ口実でしかない。
そのような人は急進的プチブル主義者と呼べるのですが、そのような人もまた大衆のカオスに自分が突き動かされている。
では、そのような大衆をどうしたらいいか。
それこそ啓蒙が必要なのです。
私が山口二郎や志位委員長を無責任だと感じるのは、彼らSEALD’sの間違いを政治の運動を止めないために、批判しないことです。
その政治の運動のために、大衆の政治的運動の間違いを批判しない、その態度は、ポピュリズムです。
そして、批判をされたSEALD’sにうってかわって批判者の女性の韓国人研究者を罵倒する野間もまた大衆のカオスに自分が突き動かされた一人の盲目的人間であることを理解できていない。
整理すると、SEALD’sに内在する言葉の大衆的な厳密のなさを指摘した韓国の女性こそが、それをまさに世界の人民の問題としてとらえ、民主主義を大衆的民主主義に堕落させないよう、問題提起した。
その問題提起こそがdemocracyである。
そして、韓国の女性の批判を罵倒する連中はmonarchyである。
このことは断言できる。
SEALD’sは本当にdemocracyを選びたいのか。

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