なぜ、安保法制のような侵略戦争を可能にさせてしまうような法案が憲法第9条の日本で生まれ可決されてしまうのか

なぜ、安保法制のような侵略戦争を可能にさせてしまうような法案が憲法第9条の日本で生まれ可決されてしまうのか。その答えは戦前の国体主義者を日本の大衆が同じ日本人だということで許してしまったからである。もっと言えば、昭和天皇と日本国憲法の同時共存という欺瞞が安保法制にまで至る社会構造を作り上げてしまった。純粋に民主主義者であれば、帝国主義戦争の責任者である天皇とその反省である日本国憲法の同時共存におためごかしを見るはずだ。昭和天皇と日本国憲法の同時共存の欺瞞が破れ、日本の大衆の権利である日本国憲法の力を国体主義者にそぎおとされた現在の状態に集団的自衛権から安保法制を国体主義者の純粋継承者の政治家である安倍晋三により日本国家に強制的に植え付けられた。
その植え付けを阻止するには日本の人民は一億総懺悔ではなく、戦争責任者の徹底処分、総責任者である昭和天皇の処刑を日本の人民は求めるべきであったのである。
戦争責任者により遂行された戦争により幾多の人民が殺されたのか。
その事を考えれば昭和天皇の処刑は当然の要求である。
そのことが民主主義である。
では、われわれ、日本人民は、安保法制の実現にまで至った現在、どのようにすればよいのか。
それは土井たか子がいっていたような憲法第9条を守れ式の穏健な政治的主張ではない。
日本国の基本法である憲法の条文である憲法第9条を守れ、ということを言えば政府に対立している、というその考えが奇妙ではないか。
なぜなら、「日本国の基本法である憲法の条文である憲法第9条」ではないか。
であれば、憲法を守ろうとしない政府を罷免するのは日本に在住する外国人も含めた人民の権利であって、その罷免を実力で行使するにはまさに憲法で保障された抵抗権を自衛隊とともに政府に敵対し、場合によっては首相は自衛隊の銃口により射殺されることもある。それが人民のゲバルトによる政府への罷免である。
私は政治闘争は階級闘争である、という視点で述べているのであって、人殺しを肯定しているのではない。
日本に在住している外国人も含めた人民が政府に反乱したとき、反作用で政府からの弾圧が起きる。その弾圧に対してこそ人民の自衛権つまり抵抗権という基本的人権により政府側の人間を暴力で打ちのめす、そのことは刑法の急迫不正の事態でもあり、正当防衛でもあり、憲法の自衛権、抵抗権である。
日本国民は国民という枠内に存在し続ける限り、国体主義者の温存を許してしまう。同じ国民だからだ。
だが、日本国民が人民もしくは平民の権利として日本国憲法を政府への反撃の武器として使用するならば、政府に対して守れ、ではない。
その人民の要求に応じない政府はジョンロックの抵抗権により、人民の武装により、打ち倒されてもおかしくないし、政府要人の財産没収は当然ながら人民の権利として認められる。
日本国民は暴力による蜂起から目を背けたまま、今どきのおしゃれな格好をした若者の集団であるSEALD’sの声で、本当に国体主義者の純粋継承者である安倍政権を倒せると考えているとしたら、それこそ、闘争、という単語を忘れてしまった日本国民のarrogantである。
問題は過去の昭和天皇と日本国憲法の同時共存を許した日本国民の戦後の戦争責任を問わないその事が反民主主義なのである。
日本国憲法とは大日本帝国のアジアへの侵略戦争に対し、そのアジア、特に中国に負けたその結果、日本に理念として連合国の比較的民主主義の勢力が日本の攻撃性を封印するために押し付けた法である。ゆえに敗戦国のわれわれは決して捨ててはいけない、なぜなら信義則の問題だからだ。
その法とアジア侵略戦争の遂行責任者である昭和天皇の同時共存はまさに日本的平和の欺瞞である。
もし、日本国憲法を日本国民が維持したいのであれば、昭和天皇の処刑、もしくは国外追放を求めるのが民主主義としては当たり前であり、そうではなく、昭和天皇を許したその甘さが安倍政権の集団的自衛権から安保法制までつながっている。
それは国民だからだ。
だが、日本の人民もしくは平民という見地にたてば、支配階級である昭和天皇への処刑など驚くことではあるまい。
先も書いたがいったい、昭和天皇の命令で多くの人民が殺されたのか。
であれば、昭和天皇を殺すこと。
現在は昭和天皇は大往生してしまったのでその昭和天皇の戦後作られたイメージを壊すこと。
そして日の丸、君が代を粉砕すること。
安保法制に抵抗する闘争は土井たか子やSEALD’sが行っている穏健な護憲ではありえない。
まさに大日本帝国の観念を日本の人民が清算するその歴史が強いる闘争である。
ゆえに大日本帝国にもっとも虐げられた在日を排除する護憲運動である政治闘争は欺瞞である。
われわれ、日本の人民は外国人も含めた連帯により国家=資本の安倍政権に敵対するのであって、国を愛する国民としてではない。
人民の普遍的な正義を実現するために国体主義者の純粋継承者である安倍政権をまさに日本の社会的構造変革のために敵対する。
なぜなら、日本国憲法の英文は、We,the Japanese peopleで始まっているではないか。
そのことを自覚することが人民の権利の憲法の意義が発揮される。
憲法とは国を愛する国民の法ではない。
それは人民の普遍的な人権の権利章典である。

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