戦前のイデオロギーの中心は「大日本帝国憲法」ではなく「教育勅語」である

伊藤博文は明確に立憲君主制を志向して憲法を作った。大日本帝国憲法は、藩閥政治に対する政党政治の要求のその実現であるから、それは当時においてはより政治が進んだともいえる。だが、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行(いんこう)集会及結社ノ自由ヲ有ス」でしかない。
日本型権力は温情的な態度で人民の要求を受け入れる。
大日本帝国憲法は自由民権運動の藩閥政治から政党政治、議会開設の要求を藩閥政府は自分たちの都合のいいようにすりかえねじまげ受け入れた。
だが、そのことを当時の日本型権力の遂行者である山県有朋を中心とした藩閥政府は「温情」として人民に発表した。
大日本帝国憲法は、憲法の機能を果たさなかったことが昭和天皇の戦争責任の免責がその大日本帝国憲法の機能のなさを証明してあまりある。というか、憲法の意味を藩閥政府から第二次世界大戦の指導者である近衛や東條においても理解されてなかったのだ。
戦前の日本の指導層から平民までの価値観の中心にあったのは「大日本帝国憲法」ではない。「教育勅語」である。
大日本帝国が「憲法」であるならば、それは君主でもある天皇が法的に縛られるということだ。そのことは大日本帝国憲法に明確に条文化されている。

「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権(とうちけん)ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ」

天皇は法に従う、ということだ。この条文をヒントにさらに日本人民の「自由民権運動」は高まるのだ。
その証明が戦前、「立憲」を冠した政党名があったということだ。
日本人民が目指したその要求は「議会政治」である。
天皇の戦争責任を免責したアメリカの情実で決まった判決は、戦前の日本人民の「議会政治」への声を愚弄する「犯罪」である。
戦後はその「立憲」を冠した政党名がないことは戦後「立憲主義政治」が徹底化されたから冠する政党がなくなったということではない。むしろ、戦後は「戦後民主主義」のオンパレードで「立憲主義政治」が忘却されたのだ。
戦前の指導層から平民が「大日本帝国憲法」ではなく「教育勅語」が価値観の中心にあったことはこの「教育勅語」が各学校に「下賜」され、行事のたびに「奉読」が義務付けられたことから言える。というか指導層はこの「教育勅語」を支配の道具のため作成した。
戦前のイデオロギーの中心的役割を果たしたのは「大日本帝国憲法」よりむしろ「教育勅語」である。
もし、「大日本帝国憲法」がイデオロギーの中心にあれば「昭和天皇」への「戦争責任」の追及がもっと為されてよいのだ。

なぜなら、以下、天皇の規定文を掲げる

大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治(とうち)ス

皇位(こうい)ハ皇室典範(てんぱん)ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫(こうだんしそん)之ヲ継承(けいしょう)ス

天皇ハ神聖(しんせい)ニシテ侵(おか)スヘカラス

天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権(とうちけん)ヲ総攬(そうらん)シ此(この)ノ憲法ノ条規(じょうき)ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行

天皇ハ帝国議会ノ協賛(きょうさん)ヲ以(もって)テ立法権ヲ行フ

天皇ハ帝国議会ノ協賛(きょうさん)ヲ以(もって)テ立法権ヲ行フ

天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其(その)ノ開会閉会停会(ていかい)及衆議院ノ解散ヲ命ス
①  天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又(また)ハ其ノ災厄(さいやく)ヲ避クル為(ため)緊急ノ必要ニ由(よ)リ帝国議会閉会ノ場合ニ於(おい)テ法律ニ代ルヘキ勅令(ちょくれい)ヲ発ス
②  此(こ)ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若(もし)議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向(むかっ)テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ

天皇ハ法律ヲ執行(しっこう)スル為ニ又ハ公共ノ安寧(あんねい)秩序ヲ保持シ及臣民(しんみん)ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム 但(ただ)シ命令ヲ以(も)テ法律ヲ変更スルコトヲ得(え)ス

天皇ハ行政各部ノ官制(かんせい)及文武官(ぶんぶかん)ノ俸給(ほうきゅう)ヲ定メ及文武官ヲ任免(にんめん)ス 但(ただ)シ此(こ)ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲(かか)ケタルモノハ各々(おのおの)其(そ)ノ条項ニ依ル

① 天皇ハ戒厳(かいげん)ヲ宣告ス
② 戒厳(かいげん)ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

天皇ハ爵位(しゃくい)勲章(くんしょう)及其(そ)ノ他ノ栄典(えいてん)ヲ授与(じゅよ)ス

天皇ハ大赦(たいしゃ)特赦(とくしゃ)減刑(げんけい)及復権(ふっけん)ヲ命ス

① 摂政(せっしょう)ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル
② 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権(たいけん)ヲ行フ

以上、掲げたように、「大日本帝国憲法」は「天皇」に様々な政治的大権を付与している。
素直に読めば「昭和天皇」に「戦争責任」がないとはいえない。
むしろ、敗戦後直後ではこの法に従い「昭和天皇」への退陣を求める声があった。その声こそが「立憲主義」である。

では、なぜ、「昭和天皇」の「戦争責任」が免責されたのか。
それはアメリカの「情実」もあるが、
教育勅語の刷り込みは大きい。

「朕惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。
我ガ臣民、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世世厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦(また)實ニ此ニ存ス。
爾(なんじ)臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)己(こ)レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。
是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺シテ、咸(みな)其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。

明治二十三年十月三十日
御名御璽」

日本臣民は天皇の赤子、ゆえに天皇に孝行せよ、が「昭和天皇」の「戦争責任」を日本人民の感情に免責を促し、あまつさえ一億総懺悔をさせたのだ。

現在も下村文科大臣は「教育勅語」の復活を狙っている。

彼ら、藩閥政府の末裔の政治家が行いたいのは「立憲政治」でもなく「議会政治」でもない。人による人の支配であり、そのために幼稚な儒教の訓示を連ねた「教育勅語」を復活させたいのだ。

戦後の日本企業もこの「教育勅語」イデオロギーが浸透している。

松下幸之助や、素手でトイレ掃除のイエローハットがそうではないか。そしてやたら訓示を述べるだけの無能経営者は多いではないか。彼ら無能経営者は「労基法」をはじめとした「法」を遵守しないことにおいては戦前の藩閥政治家から現在の末裔である安倍政権となんら遜色はない。日本国憲法の改憲とは改憲ではなく「法の無視」を遂行する、ということだ。

「憲法」を無視することにおいては戦前も戦後も変わりない。田中正造は「大日本帝国憲法」を盾に「明治政府」に闘ったのだ。

日本は戦前も戦後も「法」をひたすら無視する最低な人治国家である。

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